ずっと泣いていたから全く出かけたくなんかなくて、なんで?と思っていた
ふてくされて車の後ろに乗って横になって
着いたら隣の市の体育館だった
意味が分からなくてとりあえず降りたら
県の大会などで使うこの広い体育館を平日
わざわざ予約する人などいなくて、
母と私の二人だけだった
待っててと言われて、まだ意味が分からなくて
ここ小学校のときバレーの大会で来たとこやん、とか思いながら壁にかかっている時計ばかり見た
そうしたら母が来て、バレーボールを持っていた
本当に意味が分からなくて、頭の中が?だった
そこから二人でネットを張ってバレーをした
私は好きでもないのに誘われて、避けられなくて
小2から中3までバレーをしていた
母は本当にバレーが苦手で、PTAとかで
ミニバレー大会に出らされるときも、
決まって後ろのポジションにいくのに、
しっかりはじいて遠くに飛ばすような、
そんな感じでバレーは見るのは好きやけど、
やるのは本当苦手!と自分で言うくらいだった
そんな母がバレーボールを持ってきて、
どちらもバレーなんて好きではない二人が
たった二人でバレーをした
私はその頃全く学校に行けなかったから、もちろん部活にも行けなくて、学校に行けなくなったいろいろの理由にはバレーも入っていて、正直バレーなんて大嫌いだった
でも大嫌いなことを頑張ってきた自分を
よく頑張った、と思っていたし
バレーを大嫌いと言ってしまったら頑張った自分を軽んじるような気もして、そして本当は頑張ることは少し楽しくて、どうして良いか分からなかった
頑張っていることを頑張っていると周りに伝わらないのが絶望だった
だから責められなくて良いバレーを母として
素直に楽しかった
車の中でも体育館でも母は私が学校に行けないことになんて何も言わず、ただ、バレーって難しいなあ、杏奈はすごいわ、とだけ言った
帰りの車も横になった
横になった瞬間涙が出た
泣いていると分かられないように、
そこで泣ける精一杯の涙で泣いていた
どうしてこんなに優しいのだろう、と
今でもこの日のこと思い出すと
喉が熱くて涙が上がってくる
たとえば、もし今この瞬間血が繋がっていないと母から言われたとして、それがなんだと言えるくらい代えがたい優しさや何の含みもない愛情を、本当に必要なときに注がれていたと知っている
そこから保健室に行くようになった
せめて学校に行こうと思って
何も食べられないから、フルーツ持たせてもらって、だいぶ調子が良いときは人生ではじめてのお茶漬けとかほんの少しだけ食べて、14歳はそんな感じだった
最後は大学生になる頃
大分を出て、この街に来たとき
母がついて来てくれて、一緒に家のことを整えた
一緒にとか言っても私は特に何もできなくて、ドライバーまで使いこなして食器棚もテレビ台もハンガーラックも、全部母が組み立ててくれた
居ても居なくてもどっちでも良いくらい