今、私の中でコーディネートが具体化できていて楽しい。

誤解しないでほしいのだけれど、
洋服は、フィーリングのような “言葉にできない何か” だったり、うれしいたのしい大好き!!!以外の何物でもない感情、で選び合わせるのが常。
それは私も勿論そうで、「これがこうで~、だからあれを引き算して~」とクローゼットの前で計算式を並べて考え込んだり、どこかの雑誌で読んだような「前を少しだけインしてこなれ感!」を盲目的に実践したりもしない。
自分が洋服と付き合ってきたことで培った“マイルール”こそあれど、他人のルールが自分にそっくりそのまま合うかと言えばそれは違うし、コーディネートするという行為が生ものである以上、鏡の自分を無視してHOW TOばかりを気にするのは野暮なのだ。
じゃあ私は何を書いているのか?といえば
鏡の自分を見たときに時々起こる「なんか違うかも」。その「なんか」が何なのか。形?色?素材?それとも服じゃなく髪?
冒頭で話したようにコーディネートは感覚だからこそ、違和感も感覚でしかない、その原因不明のもやっと感。それをなるべく言葉におこすことで、「私の抱えていた違和感はこれかも」と誰かのかゆいところに届く孫の手になれば、と思っている。
昔から好きな素材と距離を置いている素材がある。
結論から言うと、好きな素材はコットン・ウール・カシミヤ。
コットンなら布帛(織物)であるシャツよりも、Tシャツやカットソーのように編まれたもののほうが好き。夏ならリネンも入るし靴ならスウェードも。
カーフスキンなら是非ともシボが入っていてほしい。
つまりさらさらつるんとしていない、少しの野暮ったさや土臭さが残るような質感が好きなのだ。
故に距離を置きがちだったものはポリエステル・キュプラ・シルク。靴ならエナメル。パリッとしたシャツ、つやっとしたカーフ...
この質感に距離を置いたのは、おそらく私の中に“アンチ女らしさ” があったからだと思っている。
湿り気のある上質なシルクのブラウスに漂う知的で品の良い女らしさ。エナメルパンプスが放つ、凛としてブレない女性像...
それが20代の未熟な私には、 "媚び” に思えた。
いや、私も女であるしありたいのだけれど、女という性を確実に高めてくれるそれらのアイテムは私にとって“分かりやすすぎた”のである。

そんな私に変化のきっかけは突然訪れた。
フィービーのセリーヌ退任が決まり、いよいよ終盤を迎えた11月。
私は店に入るや否やシャツを片っ端から見てまわった。フィービーのスタイルの中で欠かすことのできないシャツを1枚も持っていなかったからである。
似合わないと諦めていたけれど、もし自分に収まりのいいものがあるなら絶対に欲しかった。
定番のタキシードからプルオーバーまで試着し、納得の1着に出会うことができた私は、それから意気揚々と自分のワードローブとコーディネートし始めた。
そのうちにはっきりと気づいたことがある。
異なる質感はそれぞれの存在感を高め、コーディネートに奥行きをもたらしてくれる。
ウールのあたたかみとシャツのひんやり感。ウールの柔らかさとシャツのパリッとした硬さ。ウールのイージーな雰囲気とシャツのちょっとした緊張感...
相反するものだから馴染みすぎて1枚の絵のように平面におさまることがない。
タートルネックニット+ウールのトラウザーにウールのコートを羽織るという、”冬素材詰め合わせ状態”では得られない、ちょっと洗練に近づいた感覚。
